• 定例集会のご案内

    礼拝(日曜日)
    午前10:45~12:00

    お問い合わせ 0987-25-5226
    日南チャペル(高森)

  • 中型聖書 新改訳
    日南チャペルでは新改訳聖書を使用しております。初めての方には備え付けの聖書をお貸し致します。

神のみこころを行おうと願うなら

だれでも神のみこころを行おうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。(イエス・キリストのことば ヨハネの福音書7:17)

世界には様々な宗教や様々な教えが、それこそ星の数ほどあります。その中でどの宗教が本物なのか、どの教えが正しいのかを見分けることが果たしてできるでしょうか。また、どれか一つのみが真理だということがあるでしょうか。そもそも真理は存在するのでしょうか。

イエス様はそれを見分ける方法があると言われます。そして、それはただ一つの真理に私達を導くというのです。それは、どのような方法でしょう。実は決して難しいことではないのです。ただ創造主なる神様の御心を知りたい、その御心を行いたいと切に求めることです。

「人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれる」(Ⅱコリント3:16)と聖書に記されていますが<主に向く>とは<神のみこころを行おうと願う>心を持つことなのです。その時、私達の心を覆っているものが少しずつ取り除かれ、次第に心の目がはっきりと見えるようになってくるのです。人生において本当に大切な事柄がなんであるか、何が真理であるかが見えてくるというのです。

しかし、クリスチャンであっても、もし自分の欲望を神として歩んでいるならば、私達の心には霊的なおおいがかかっているままですから、どうでもいいことばかりに心を奪われ、本当に大切なものを見失ってしまうことになるのです。

イエス様は言われました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしをとおしてでなければ、だれひとり父(創造主)のみもとに来ることはできません」(ヨハネ14:6)「父(創造主)から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます」(ヨハネ6:45)

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しくへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎがきます。」(マタイ11:28-29)イエス様のことばに心から従える人は幸いです。

(説教奉仕:高森恒喜)

信仰の薄い者たち

きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどまでに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。(マタイ6:30)

なぜ心配するのか?なぜ怖がるのか?なぜ疑うのか?なぜ分からないのか?信仰の薄いものたちよ、とイエス様はたびたび弟子たちを叱咤されました(参照:マタイ6:30、8:26、14:31、16:8)。

信仰がないわけではない、でも不安になる、恐れてしまう、疑ってしまう、悩んでしまう。それはなぜでしょう?それは私たちの信仰が薄いからです。私たちの信仰が小さいからです。

では、一体どうすれば、私たちは大きな信仰を持つことができるのでしょう?

まず、第一に日々十字架を見上げることです。十字架は創造主なる神が自分にとって最も大事なひとり子を私たちのために捧げてくださった証拠です。

「私たちすべてのために、ご自分の御子イエスをさえ惜しまずに渡された方が、どうして御子イエスといっしょにすべてのものを私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」(ローマ8:32)

大金持ちの子どもはお金の心配をしないでしょう。全世界、全宇宙、それらはすべて神のものであり、私たちはその神の子なのです。何を心配することがあるのでしょう?何を恐れる必要があるのでしょう。私たちはその日、その日自分のなすべきことをなせばいいのです。

第二に主を「あがめる」ことです。「あがめる」とはギリシャ語で「メガルノー」、拡大するという意味があります。神を礼拝することは、私たちの信仰の拡大につながるのです。賛美をすればするほど、感謝をすればするほど信仰が増し加えられ、そこに神の力が働くのです。逆に不平や不満を口にするごとに私たちの信仰は小さくなるのです。信仰に溢れないならば、賛美と感謝に溢れるものとなりましょう。

第三に、みことばに親しむことです。「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによる」(ローマ10:17)からです。イエス様から目を離さない。イエス様をいつも思う。それは取りも直さず、みことばから目を離さないこと、みことばをいつも思うことです。そこに神の素晴らしい平安が訪れるのです。

(説教奉仕:高森恒喜)

聖霊に導かれて

イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かして下さるのです。 ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って生きる責任を肉に対して負ってはいません。(ローマ8:11-12)
 

創造主なる神は初めの人間アダムとエバに対し「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」(創世記2:17)と言われました。この言葉の本質的な意味をくみ取って意訳するなら次のようになるでしょう。

「善悪を自分の基準で勝手に判断してはならない。もし自分勝手に善悪を判断し行動するなら人生は破滅へと向かう」

残念なことにアダムとエバは<善悪の知識の木>から取って食べてしまいました。善悪を人間の基準で判断するようになった結果、人類はどうなってしまったかというと「地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾く」(創世記6:5)ようになったのです。

創造主なる神に従うことをやめてしまった人間は、自由を得たかのように思ったかもしれません。しかし、それは自分の欲望に従うようになってしまっただけだったのです。「欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生む」(ヤコブ1:15)のです。

イエス・キリストは私たちが「世にある欲の滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるため」(Ⅱペテロ1:4)に救い主として地上に来て下さいました。

イエス様の十字架と復活を信じ受け入れる時に、私たちのうちに神の聖い霊が注がれます。その聖霊に従って生きる時、私たちはもはや肉の欲望に従って生きる必要はありません。「なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです」(ローマ8:2)。

私たちは神の子どもとして御霊に導かれて真の自由の中を歩もうではありませんか。

進化論の危機?創造論の嬉々?

少し前のニュース記事になりますが、興味深い記事を見つけたのでその一部を紹介します。

記事の内容は進化論を取り巻く今のリポートです。

絶対匿名を条件にコメントを引き受けてくれた国立大学のA准教授の口から出た以下の言葉。

「聖書に書かれていた創造論、アダムとイブの話は宗教的には真実でも科学的に信じるには無理があるというのが普通の考えでした、しかし、遺伝子の解析が進み、これまでの科学では解明できなかった事実がいろいろと判明してくると、あながちアダムとイブの話も無視できなくなってきたのです」

「遺伝子を解析してゆくと何の役にも立っていないゲノムがいくつかあります。“ジャンクゲノム”と呼ばれているのですが、このゲノムがなんらかの作用を起こしたときにいわゆる突然変異が起こると考えてもおかしくはありません。仮に、全宇宙のわれわれより進んだ文明がジャンクゲノムの作用を解明していて人為的に操作したとしたら…生命は1万年ほどの短い期間で驚くべき進化を遂げることが可能です。ジャンクゲノムがスイッチの役割を果たしているというSF小説のような話が現在、最先端科学の現場で真剣に話し合われているのです」

 

A氏は科学者であり無神論者。

そのような方の証言ですのでノンクリスチャンの方に対しても、より説得力を持つのではないでしょうか?

A氏の言う「全宇宙のわれわれより進んだ文明」は私たちにとっては創造主なる神として捉えてることができるでしょう。

神が進化を手助けしたという一部のクリスチャンの考えに私は賛同しませんが、科学が進歩すればするほど聖書が真実がさらに明らかになってくることを期待しています!!

 

*オリジナルの記事は下記URL

http://news.livedoor.com/article/detail/3460542/

決して揺り動かされないものに

これらのことが起こり始めたなら、からだをまっすぐにし、頭を上にあげなさい。贖いが近づいたのです。(ルカ21:28)

2011年3月11日午後2時46分。未曾有の大地震が東北関東地方を襲いました。大津波は町々を飲み尽くし、犠牲者の数は今なお増え続けています。私たちはキリスト者として被災地におられる方々のために祈り、また具体的に自分のできることをしたいと心から願います。 また、キリスト者としてこのような状況に対する聖書的な見解をしっかりと持つことも大切です。

たとえば今回の大震災が「神の罰だ」と発言をする方々がおられます。日本では都知事が、韓国では有名な牧師がそのような発言をして問題になっているようです。海外のメディアではこれは神の仕業か否かという議論がされているところもありました。

しかし、そもそも、これが神の罰だとか、そうでないとか議論すること自体が聖書的ではないと思われます。イエス様は言われました。「そのガリラヤ人たちがそのような災難を受けたから、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます・・・」(ルカ13:1-5)。

災難にあった人々が特別に罪深いとかそうでないとか、神の罰か否かとか、それが問題ではありません。神の目から見れば、人間はみな同じように罪深い存在です。キリストの十字架の赦しをとおして創造主なる神との関係を回復しなければ、この天地が滅びる時に、滅びてしまうと聖書は教えるのです。

人間はみな死にます。自然災害で、病気で、事故で、あるいは寿命でと、どのような死を遂げるかは千差万別ですが、みな等しく死ぬのです。本当に解決されなければならない問題は災害、病気、事故、寿命ではなく、その先にある死であり、さらにその先にある永遠の滅びなのです。

この地上のものはすべて過ぎ去ってしまいます。私たちは今回の大震災でもそのことを思い知らされました。私たちは今こそ、目に見えるものではなく、目に見えないものに、揺り動かされるものではなく、決して揺り動かされないものに、目をとめて生きていきましょう。信仰と希望と愛に生きていきましょう。

(説教奉仕:高森恒喜)

だから、こう祈りなさい

だから、こう祈りなさい。「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように・・・」(マタイ6:9-13)

<祈り>とは何でしょう?私たちは何故祈らなければならないのでしょう?祈ることをとおして何を得ることができるのでしょう?

まず、確認したいことは<祈り>イコール(=)<願い>ではないということです。「神は、あなたがたのお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられる」(マタイ6:8)と記されているとおり、すでに神様は私たちの願いを知っておられます。ですから、ある意味あえて<願う>必要はないとさえ言えるのです。

しかし、それでもなお神様は私たちに「絶えず、祈りなさい」と聖書をとおして語られますし、その祈りの中には<願い>も含まれるわけです。なぜ、神様がそのようなことを求められるかというと、それは<祈り>が創造主なる神様と人間との<対話>だからです。

私たちは愛する人とともに時間を過ごすこと、またそこでコミュニケーションを持つことを喜びとします。創造主なる神様も愛する人間とともに時間を過ごし、コミュニケーションを持つことを望まれるのです。それこそが祈りの本質であり、私たちの喜びの源泉なのです。

イエス様は早朝、まだ暗い内に起きて、祈られました(マルコ1:35)。また朝だけでなく日中もよく荒野に退き祈られたのです(ルカ5:16)。ときには徹夜して祈られることもありました(ルカ6:12)。<祈り>はイエス様の生活の最優先事項であり、中心であり、全てだったのです。私たちもイエス様のようになりたいと願うならば、イエス様のように祈らなければなりません。

<祈り>をとおして、私たちは神様との深い交わりのうちに一つとされます。そして、私たちをとおして神の力が現され、神のみこころが実現するです。そのためにも、私たちの祈りの妨げの原因となる罪を私たちの心の内から取り除いていくことも大切になります。私たちの告白していない罪、また人に対する苦々しい思いなどが、祈りが聞かれる妨げとなっている場合があります。私たちはそれらのものをことごとく心の内から除き去り、祈りの家で楽しむ者となりましょう。

(説教奉仕:高森恒喜)

わたしの願うようにではなく

わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。(マタイ26:39)

自分の人生、自分の願うように生きたい。そう思うのがこの世の中では普通の感覚かもしれません。しかし、そのような思いで生きている限り、真の平安を得ることは決してできないでしょう。

なぜなら、真の平安は「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや、私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられる」(ガラテヤ2:20)と告白し、「地上の残された時を、もはや人間の欲望のためにではなく、神のみこころのために過ごす」(Ⅰペテロ4:2)人に与えられるものだからです。そのような生き方こそ、イエス様に学ぶことであり、そこにこそ「そうすればたましいに安らぎが」(マタイ11:29)来るというイエス様の約束の成就があるのです。

では、どうすれば、私たちはイエス様のように、「わたしの願うようにではなく、あなたのみこころように、なさってください」という姿勢を身につけることができるのでしょう?

そのためには、私たち人間が神のしもべとして造られているという事実をしっかりと心に刻まなければなりません。

確かに私たちはイエス様の十字架によって、神の子とされ、また、神の友と呼ばれる存在となりました。しかし、その本質として神のしもべであることは永遠に変わらないのです。だからこそ、「神のみこころは何か、すなわち何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変え」(ローマ12:2)ることが大切になってくるのです。

「悔い改める」とは単に自分の過去の過ちを悔いることではありません。それは私たちの考え方を一新するということなのです。私たちが今まで持っていたこの世の提供する世界観、人生観、価値観を離れて、聖書が教える世界観、人生観、価値観を身につけることなのです。「主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを思い巡らす」(詩篇1:2)ことは、そのための基本的な霊的習慣です。日々、聖書の教えに親しみ、神のしもべとして自らを整え、平安と喜びの豊かな実を結びましょう。

(説教奉仕:高森恒喜)

聖書の中心的教え

1.創造主なる神の存在

聖書は「初めに、神が天と地を創造した。」(創世記1:1)という言葉で始まります。世界は偶然に存在しているのではなく、意味と目的を持って存在させられているのです。これが理解されてはじめて、私たちの人生も意味と目的を持つのです。

2.神の無限の愛と無限の力

創造主(神)は無限の愛と無限の力を有するお方です。創造主はその愛と力を持って私たちを導きたいと願っておられます。また神に導かれて生きることこそ人間本来のあり方なのです。

3.十字架と復活

どうすれば、人間は創造主との関係を回復することができるのでしょう。イエスの十字架と復活を信じることによってです。その出来事をとおして示された神の無限の愛と、無限の力を信じることが神との関係を回復する唯一の方法なのです。

4.聖書の教えの実践

御言葉の実践こそが「神の口からでるひとつひとつのことば」(マタイ4:4)を食することです。主食は「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)。その実践が霊的成長につながり、神との関係も築き上げられることになるのです。

5.聖霊に満たされ続ける

  神の無限の愛と無限の力に繋がり続けることと、聖霊に満たされ続けることは同じことです。聖書の学びと祈りの生活は御言葉を実践でも最も優先すべき事柄です。この霊的習慣が聖霊に満たされることにつながり、他の御言葉の実践の原動力となるのです。

6.永遠への備え

地上で創造主との関係をどれだけ深めることができるか。それが、その人の永遠につながります。永遠の「救い」と永遠の「報い」の区別を理解しましょう。永遠の「救い」は信じるすべての人に与えられますが、永遠の「報い」は、ひとりひとりが神のことばにどう応答して生きたかによって異なるのです。
                                       

(説教奉仕:高森恒喜)

キリストのからだとしての教会

教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。(エペソ1:23)

 イエス様を救い主として心に受け入れるということは、キリストのからだの一部となることです。具体的には教会の一員として、与えられた責任を果たしていくことですが、この真理を正しく理解することは、健全なクリスチャン生活を送る上で非常に重要なことです。

1.キリストがかしら
 「御子(イエス)はそのからだである教会のかしら」(コロサイ1:18)
です。体は頭(脳)の命令に従って動きます。もし、体が脳の下す命令に従わないとしたら、それは健康な状態ではありません。教会も同じです。イエスの命令に従ってこそ、教会は教会として健全な歩みをすることができます。キリストのからだとして「自分の欲望のためにではなく、神のみこころのためにすごす」(Ⅰペテロ4:2)ことを求め、目指していきましょう。

2.それぞれの役割
 「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」(Ⅰコリント12:27)体には手や足、目や口、心臓や胃などの様々な器官があり、それぞれがその役割を果たしています。教会もひとりひとりに神様から与えられていう賜物(能力)があり、使命(役割)があります。それぞれが、その分に従って互いに仕えあう時に、教会は神の栄光を反映することができるのです。

3.いのちを宿し続ける
血はからだの隅々に流れ、栄養や酸素を運びます。キリストの教会にも霊的な栄養豊富な血が必要です。その血が教会の隅々にまで流れることが、教会が健康であるために重要なことなのです。そして、その霊的な血は私たちが日々食する神のことばと祈りから生まれることを心に覚えましょう。だからこそ、ひとりひとりが、祈りとみことばのうちにキリストとの交わりを保ち続けることが必要なのです。

(説教奉仕:高森恒喜)

貧しきやもめの偉大な信仰

まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。みなはありあまる中から投げ入れたのに、この女は乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです(マタイ12:43-44)

 名もなき貧しきやもめの捧げ物をイエス様は心から称賛されました。貧困にあえぐ未亡人の女性の内には、聖書の偉大な信仰者たちにまさるとも劣らない信仰が宿っていたのです。それはどのような信仰だったのでしょうか?

1.望みえないときに、望みを抱く信仰

神を信じていても、状況は悪くなる一方。普通であったら、信仰を捨ててもおかしくありません。しかし、やもめは「不信仰になって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し」(ロマ4:20)たのです。彼女の内にアブラハムの信仰が宿っていたのです。まさに彼女こそアブラハムの子孫だったのです。

2.誓約の信仰

貧しいやもめは、今でいうならば、100円、200円ほどしか手元になくなってしまい、やけっぱちになってそれを捧げたわけではありません。それまでも忠実に捧げ続けていたのです。それにも関わらず、彼女の人生は苦労の連続でした。夫を失い、支えてくれる親族もなく、無一文になったのです。しかし、彼女はそれでも神を愛し続けました。それは「たとい、そうでなくとも」(ダニエル3:18)と告白したシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの信仰と同じです。

3.真の礼拝者としての信仰

彼女は何をしに、宮に来たのでしょう。それは神を礼拝するためにです。ダビデは「私はあらゆる時に主をほめたたえる」(詩篇34:1)とうたいましたが、この貧しいやもめも、人間的には最悪と思われる状況の中で、神に感謝と賛美を捧げるために、神の宮に来たのです。これこそ、真の礼拝者のあるべき姿であり、私たちが生きる目的です。「あなたこそ、私の主。私の幸いはあなたのほかにはありません」(詩篇16:2)

告白する信仰

                              
あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。(マルコ5:34)

私たちは礼拝に集まり、信仰の内にイエス様に出会い、霊の内にイエス様に触れます。

しかし、同じようにイエス様に触れていても、そこから全能の神の力をいただくことができるかどうかは、ひとりひとりの霊的な状態によります。

どうすれば、私たちは神の力をいただき、救いと解放を得ることができるのでしょう。長血の女が癒しを体験した記事からその秘訣を学んでいきましょう。

1.救われたい(癒されたい)との真剣な願い

長血の女は病から解放されたいと真剣に求めていました。そのことは彼女が色んな医者から様々な治療を受けて、全財産を使い果たすまでになっていたことから伺い知ることができます。

しかし、病状は悪化する一方。それでも彼女は癒されることを諦めませんでした。そして、一縷(いちる)の望みを抱いてイエス様の衣に触れたのです。

2.信仰の告白

「きっと直ると考えていた」(マルコ5:28)という文節は、直訳では「きっと救われると言っていた」となります。すなわち、彼女はその口で信仰の告白をしていたのです。

イエス様の衣にさえ触れれば自分は必ず癒されると口で告白していたのです。私たちは自分が思う以上に、口の告白と、私たちの信仰が密接に結びついていることを覚えなければなりません。

3.イエス様に近づく

  救われたいとの真剣な願い、救い主イエスに対する信仰の告白、その上で、イエス様に近づいて、その衣に触れることが私たちの癒しと解放につながります。「感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、入れ。」(詩篇100:4)とあるように、賛美と感謝は私たちが霊的にイエス様に近づく手段なのです。

主の臨在される礼拝で心からの賛美と感謝を捧げることが、主にどれだけ近づくかに深く関わるのです。

久しぶりのブログ更新

みなさんお元気ですか?ブログの更新は、すっかり妻に任せきりで、長いこと、ご無沙汰しておりました、高森恒喜です。
現在、平日は工場で働きながら、教会の奉仕に携わらせていただいています。というわけで、教会の奉仕は十分にできていないのが現状です・・・という言い訳です。フルタイムで奉仕ができれば、それが理想的なのですが、それができないのは私の実力不足。

性格的にも現在の奉仕に不向きなため、辞めてしまったほうがいいかな?と思うこともありましたが、チャペルに集う信徒の方が一人でもおられ、その方が私を必要としておられる限り、続けていくべきかと今では思っています。

本当は人が私を必要としているかどうかというよりも、神が必要としておられるかどうか、が一番の問題。

自身の中でその確信を深めることが一番の課題かと考えています。

ただ、工場で働きながらチャペルで奉仕させていただく毎日からも、色々と学ばせられ、また恵みをいただいていることも確かです。

一番の恵みは「寝つきが良くなった」ことでしょうか?(笑)

子どもの頃からつい1年ほど前まで、寝つきが悪かった私が、今は横になれば、あっという間に夢の世界へ旅立てます。

それに、工場で仕事を終えた後の食事が、今まで以上に美味い(笑)

至福の時です。

まあ、それは半分冗談としましても、長い間、宣教活動以外でのノンクリスチャンとの接点がほとんどなかったのが、今はそのほとんどの時間をノンクリスチャンとともに過ごしています。

そして、それが日本の多くのクリスチャンが置かれている現状です。

ただ、フルタイムで奉仕をしているとほとんどがクリスチャンの中で過ごすようになるので、普通のクリスチャンがどのような環境の中で信仰を守っているかが分からなくなってしまうことがあるのではないでしょうか?

少なくとも私自身はそうだったような気がします。

そのため、たとえば説教の奉仕なども、一般のクリスチャンが置かれている現状から遊離してしまう、ということがあったのではないか?

そんな反省もあります。

そんなこんなで、色々と教えられている最中です。

ただ、神様は私の弱さも失敗も足りなさもご存じで、私を選んでくださり、そして、それらすべてひっくるめて、益と変えてくださる真実の神様に期待していきたいです。

皆様の上に神様の豊かな祝福がありますように。

神への健全な恐れ

わたしの彼との契約は、いのちと平和であって、わたしは、それらを彼に与えた。それは恐れであったので、彼はわたしを恐れ、わたしの名の前におののいた。(マラキ2章5節)

  「神を恐れよ。神の命令を守れ」(伝12:13)とあるとおり、神への恐れこそ、私たち人間が神の命令を守る根本的動機です。創造主なる神への健全な恐れがなければ、健全な信仰生活を送ることは難しいでしょう。神への健全な恐れを持つためにも、まず、創造主を恐れなければならない理由を確認しましょう。

私たちが創造主を恐れなければならない理由。それは創造主こそ「たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方」(マタイ10:28)だからです。人間に永遠の命を与え、また、永遠の滅びに定める権威を持っている創造主こそ、恐れなければならない方です。

「主を恐れることは知識の初めである」(箴言1:7)とあるとおり、神への健全な恐れは、私たちの信仰生活の基本中の基本です。どんなに聖書の知識を持っていても、すぐれた奉仕者であったとしても、その人に神への恐れが欠如していれば、すぐに罪を犯してしまいます。「主を恐れることによって、人は悪を離れる」(箴言16:6)のです。

では、どうすれば私たちは神への健全な恐れを持つことができるのでしょう。それは私たちが神のことばである聖書の教えを真剣に学んで行く時です(箴言2:1-5)。「その時、あなたは主を恐れることを悟り、神の知識を見出」(箴言2:5)すのです。

「主の目は主を恐れる者に注がれ」(詩篇33:18)「選ぶべき道を教え」(詩篇24:12)「主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助けだされ」(詩篇34:7)ます。その他にも主への健全な恐れを抱いて歩む者に対する素晴らしい祝福の約束が聖書には溢れています。

聖書の教えに真剣に向き合っていきましょう。そして、学んだことを実践していきましょう。その小さな積み重ねが、私たちに神を恐れることを教え、大きな祝福へとつながるのです。

「来なさい。子たちよ。私に聞きなさい。主を恐れることを教えよう・・・あなたの舌に悪口を言わせず、くちびるにあざむきを語らせるな。」(詩篇34:11-13)

解放への道

「心を主に向け、主にのみ仕えるなら主はあなたがたを・・・救い出されます」(Ⅰサムエル7:3)

ペリシテ人の支配下に圧迫されていたイスラエル民族。彼らはその苦しみからの解放を神に切に願い求めていました。神は預言者サムエルをとおして導きを与え、イスラエルの民はそれに従うことによって、ペリシテの支配からの解放を体験したのです。

聖書は、この世界はサタンの支配下にあると教えています。クリスチャンも時に、その中で圧迫され苦しむことを経験します。そのような時、イスラエル民族がどのような導きの中で解放を得たかを学ぶことが、私たちが解放を得るためのヒントになるのではないでしょうか?

1.偶像を捨て去る
このときイスラエルは、「主を慕い求める」(7:2)という霊的な状態になっていました。サムエルは、ペリシテ人に勝利する方法を提示します。目に見える物(偶像)に頼ろうとするのをやめて、唯一頼るべきお方として、主のみに仕える姿勢を鮮明にしました。

2.心を合わせて祈る
どんな場面でも、まず祈ることです。当たり前のことなのですが、とっさの時に祈ることができるかどうかは、普段の生活の中で、祈りが身についているかどうかにかかっています。主に心を向けているならば、命じられなくても自然に祈りへと導かれます。

3.礼拝する
主に立ち返ったら全てが平穏無事ということはありません。サタンは私達が主に立ち返ろうとする時程激しく行動してきます。しかし、その叫びを聞いてくださる方は天地創造され全てを支配されておられる方であり、私達が叫んでいく時にこそ神を体験できるのです。そしてサムエルは子羊一頭を捧げ「責任をもってイスラエルを守って下さい」と神を礼拝しました(7:9)。

 

私たちはいつも主に心を向け、主に叫び、主との交わりの中で知恵と助けをいただいて、主の勝利を体験していきましょう。

(高森真理子伝道師)

終わりまで歩め

「あなたは終わりまで歩み、休みに入れ。あなたは時の終わりに、あなたの割り当ての地に立つ。」(ダニエル12:13)

日本で毎年3万余の人々が自らの命を絶っているという現実は異常です。その中でも私達が遣わされている宮崎の自殺率は全国でも高いというのですから、胸が痛みます。

創造主なる神は私達ひとりひとりに対して与えられている人生を最後までしっかりと歩みなさいと語られます。確かに、私達の人生には多くの問題が降りかかります。悩み、苦しみ、もう死んでしまいたいと思うこともあるでしょう。それは決して悪いことではありません。偉大な神の人であったモーセやエリヤも大きな問題がその身に降りかかった時に、そのような心境になったのです。

しかし、そのような問題を乗り越えて、最後まで生き抜くことが私達に与えられている「使命」なのです。その使命を果たすためにも、人生を生き抜くために必要な考え方を持つ必要があります。

なによりも大切なのは「人生には意味があり目的がある」という確信です。ある若者が遺書を残して自らの命を絶ったのですが、その遺書にはこう記されていたそうです。「死ぬ理由はない。しかし、生きる理由もない。」

それぞれが人生に持つ短期的、長期的目標も大切かもしれません。しかし、もっと大切なのは人間の存在の根源的意味と目的です。それを知らなければ人間はもろいものです。

聖書によると人間は「神を求めさせるため」(使徒17:27)に地上での人生を与えられているのです。さらに具体的に言うならば「神のことばを求めるため」です。そして、神のことばを私達が真に学ぶ場は「苦しみ」であるというのです(詩篇119:71)。人生に様々な困難や悩みが伴うひとつの理由がここにあります。

「もし、あなたのみおしえが私の喜びでなかったら、私は自分の悩みの中で滅んでいたことでしょう」(詩篇119:92)とあるように神のことばである「聖書のおしえ」はあなたの良き相談相手となってくれます。その神のことばがあなたを人生の終わりまで正しく導き、新しい世界へ入るための成長を遂げさせてくれるのです。

(高森恒喜)

賛美による勝利

それから、彼は民と相談し、主に向かって歌う者たち、聖なる飾り物を着けて賛美する者たちを任命した。(歴代誌Ⅱ20:21)

 

南ユダ王国、ヨシャパテ王の治世、モアブ人とアモン人、そしてエドム人(セイルの人々)による連合軍がイスラエルに侵攻してきました。それを知ったヨシャパテ王は何をしたかというと「恐れて、ただひたすら主に求め、ユダ全国に断食を布告」(Ⅱ歴19:3)したのです。

日本の戦国時代に活躍した勇猛果敢な武将の逸話などを聞かされている人々にはヨシャパテ王の行動が軟弱に思えるでしょう。彼のその時の祈りも実に情けなく思えでしょう。

「このおびただしい大軍にあたる力は、私たちにはありません。私たちとしては、どうすれば良いのかわかりません。」(Ⅱ歴20:12)。

ヨシャパテ王は自分の弱さを痛感し、パニックに陥っていたのです。

しかし、感謝なことに私たちクリスチャンは弱いときにこそ強い(Ⅱコリ12:10)ものとされるのです。なぜなら、神様の力は、私たちの弱さのうちに完全に現れるからです。

もう、どうして良いか分からない。お先真っ暗だ。そんな時こそ、私たちはまことの神様の力を経験する絶好のチャンスなのです。

そのチャンスを生かすための重要なことがあります。それがヨシャパテ王の祈りに記されています。それは次のことです。

「ただ、あなたに私たちの目を注ぐのみです。」(Ⅱ歴20:12)

ただ神様だけに望みを置く。これこそが私たちが望み得ない状況の中で望みを抱き、またその望みが主にあって実現するための条件です。神様は神様だけに希望を置く人々を決して裏切るようなことはなさいません。神様はそのような人々を常に捜しておられますし、また私たちをそのような人間にしようと訓練されます。

では、具体的に神様だけに目を注ぐためにはどのようなアクションを私たちは起こして行けばよいのでしょう。それは賛美です。なによりも賛美を持って一日をはじめて行くのです。そして、一日中賛美の心で過ごすのです。賛美の中で私たちの乱れた思いが神様に集中されて行くのです。主日礼拝の短時間の賛美だけでは十分ではありません。

日々の賛美の生活があなたの霊的な生活の勝利につながるのです。あらゆる時に神様を賛美する生活を確立しましょう。

(高森恒喜伝道師)

御霊によって歩む

あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。(Ⅰコリント6:9-10)

クリスチャンの地上での人生は神の国(新天新地)に入るための準備期間、訓練期間として捉えることができます。私達は生涯をとおして神の国に入る者としてふさわしく整えられていくのです。そのためにも、神の国の市民として何が神の前に受けいれられるのかをしっかりと見分ける必要があります。この世の常識では悪とみなされていない事柄が、神の目の前には大きな悪である場合も多々あるからです。そのような事柄の代表的なものを見ていきましょう。

1.偶像礼拝~日本では神道や仏教の習慣が生活の中に深く入り込んでいます。多くの人々が神社や仏閣で礼拝を捧げることに違和感を覚えません。しかし、聖書は偶像礼拝を厳しく禁じています。その理由は「偶像は真の神ではなくむなしいものであるから」ということもありますが、その背後にサタンの存在があるからです。占いや霊媒、風水等、その他スピリチュアルともてはやされる最近の傾向にも十分に注意しましょう。

2.不品行~数ある罪の行為の中においても、性的な罪は、神と人(キリストと教会)の関係を象徴する<結婚>を汚す行為として神の目に忌み嫌われます。<結婚>の枠外での性的な交わりは個人や社会に悪い影響を及ぼすだけでなく、人間の霊的な部分にまで悪影響を及ぼすものであることを心に留めましょう。そして、この世の流れに惑わされることなく、自らを聖く保つことを心がけましょう。

3.貪欲~十戒の最後の戒めは「欲しがってはならない」です。これはただ単に何かを「欲しい」と思うことを禁じているのではなく、「貪欲」に捕らわれることを禁じる戒めです。なぜ「貪欲」を禁じるかというと、それがすべての「争い」の種であり、またそれが私達に罪を犯させ、滅びの道へと歩ませるからなのです。

その他にも聖書の基準とこの世の基準が異なることがありますので、私達は日々聖書に親しみ、神の目に喜ばれることを日々選び取り、神の国の市民として相応しく成長して行こうではありませんか。
                                            (高森恒喜伝道師)

キリストを思う

私の福音に言うとおり、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストをいつも思っていなさい。 (Ⅱテモテ1:8)

イエス様のことをいつも意識して過ごすことは、とても大切なことです。イエス様はいつも私たちとともに居てくださる方ですが、私たちの肉眼で見ることはできません。ですから、ついつい、私たちの思いはイエス様以外の何かに向いてしまいがちです。ただ、そのような状態が続いてしまうならば、あなたを破滅に陥れようと虎視眈々とねらっているサタンの餌食になってしまいます。

もし、アダムとエバがいつも神様のことを思って過ごしていたら、サタンの誘惑に屈することはなかったでしょう。しかし、アダムとエバの心はいつのまにか神様以外の何かに奪われてしまっていたのです。サタンはそれを見逃しませんでした。そして、まんまと彼らを騙し、永遠の滅びの道へと導いたのです。

聖書は偶像礼拝に警戒しなさいと私たちに警告しています。偶像礼拝の狭義には神社に行って参拝したり、寺院で仏像に手をあわせてみたりという行為ですが、広義においては、天地万物を創造されたまことの神よりも他のものを大切にすることが偶像礼拝なのです。

仕事が礼拝よりも優先されたり、家庭が神様よりも大事になったり、自分の趣味が教会の奉仕よりも優先されるならば、それは偶像礼拝以外のなにものでもありません。背後に働くサタンの思うつぼです。

ですから、私たちは十分に注意しなければなりません。神様のことを第一にしていなくても、すぐには何も変わらないかもしれません。それはアダムとエバが禁断の実を食べてもすぐには死ななかったようにです。しかし、神様よりも自分のことを優先するようになった彼らには確実に滅びが近づいていたのです。

私たちもたまにイエス様のことを思っているのではいけません。時々でもだめです。しばしばでもだめです。いつもイエス様を思うのです。それこそが、私たちのあるべき姿であり、そのような私たちにサタンは手出しをすることはできないのです。いつもイエス様を思いましょう。

善悪の基準

ソロモン王の知恵と栄華は、後代に残るまでの語りぐさとなっています。彼の知恵は国外にまで知れ渡りました。「ソロモンの知恵を聞くために、すべての国の人々や、彼の知恵のうわさを聞いた国のすべての王たちがやって来た」(Ⅰ列王記4:34)

彼はイスラエルの民を正しく導くために、富や権力を求めず、「善悪を正しく判断する事の出来るように」と、神の知恵を求めました。それは、神のみ旨にかない彼に神の知恵が与えられ、彼は国を制定し国の繁栄を得ることが出来ました。(参照Ⅰ列王記7~12)

今日、多くの人々が、善悪の判断の規準を何処におけばよいのか分からないでいます。考え方が自分中心になり、「自由」であることが幸福の条件であるかのように考えて、「自分が良ければそれでよい」として、「周囲の人に対する配慮」がだんだんと失われて、世の中が混乱してきました。これは、戦後、「民主主義」の世となり「自由」にともなう「義務」と「人格教育」と言うことを重視しなかったことにあります。「民主主義」も「自由」も聖書の言葉が規準であることを知らないでいます。「何が善であるか、何が悪であるか」は、聖書を見るならば明確に分かることです。

先に記した「知恵者中の知恵者ソロモン王」は、一時神から離れました。彼の心が神から離れこの世のものに心が移り、あらゆる欲求を満たそうとしたのです。そしてこの世のあらゆる学問の理解を深めるために研究し、多くの富を手中にしました。その結果、彼は「700人の妻300人の妾」を持つようになり、「欲望を満たし、贅を極めた」のですが、そのような生活の後に彼が悟ったことは、「たとえこの世で名声、権力、知識を得、欲望を満たしても空しい」(伝道者1:2)ということでした。

 

彼は最後に「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。」(伝道者12:13~14)と言っています。「人生の終わりには、全ての隠れたことについて、神の裁きがある」ことを知って「神を恐れ、その戒めを守り、神の教え(聖書)を善悪の判断の規準」として生きることこそ「人間最高の生き方」なのです。そしてこの生き方は自分一人だけの幸福でなくすべての人の幸福へとつながるものです。

キリストを見いだす人

   テキスト-ルカ2:22-38

彼が御霊に感じて宮に入ると、幼子イエスを連れた両親が、その子のために律法の慣習を守るために、入って来た。(ルカ2:27)

ヨセフとマリヤは赤子イエスにユダヤの男子に定められた生後八日目の割礼の儀式を授け、約一ヶ月のきよめの期間(レビ12章参照)を過ごしました。その後、贖いの犠牲を捧げるためにエルサレムの神殿に詣でるのですが、そこで彼らが捧げた犠牲から、ヨセフとマリヤは古代イスラエル王家の末裔ではあるものの決して裕福ではなく、むしろ貧しかったことをみてとることができます。

  エルサレムの神殿は多くの人々でごった返していたことでしょう。その中にはヨセフとマリヤのように聖別のために赤子を抱いて神殿に来ている夫婦も多く見られたことと思われます。それは神殿における実に当たり前の光景でした。その日常の光景に紛れたヨセフとマリヤの貧しい若夫婦が抱いている幼子がキリスト(救世主)だと誰が思ったことでしょう。

  しかし、その中で、ヨセフとマリヤに抱かれた赤子こそキリストであることを見いだした二人の老人がいました。ひとりはイスラエルの慰められることを常に求めていた敬虔なシメオンと、もうひとりは神殿を離れず夜も昼も、断食と祈りをもって神に仕えていた女預言者アンナです。

  なぜ、彼らはイエスがキリストであることを知ることができたのでしょうか。それは神の聖霊が彼らにイエスがキリストであることを教えたからです。では、なぜこの二人だけが聖霊によって、イエスがキリストであることを悟ることができたのでしょう。それは彼らが常に神のみこころを求め、常に神の臨在の中で過ごしていたからです。

  自分のことばかりを考え、世の欲の中で過ごしているならば、いくら教会で過ごしていてもキリストなるイエスを見出すことはできません。しかし、私たちが常に神のみこころを求め、祈りとみことばの内に神の臨在にとどまるならばキリストなるイエスに日々出会うことができるのです。その感動にまさるものはこの地上にはありません。
                                    (説教者:高森恒喜伝道師)

あなたの属するところ

「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」(Ⅰコリント12:27)

キリストを信じ神の国に生まれた(ヨハネ3:3、詩篇87:6)人は神の国の一員となります。それはキリストのからだの一部(器官)となることであり、原則的に地域教会に所属することをも意味します。

 

使命に生きるために
「平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。」(ローマ16:20)
神の国の働きは地域教会をとおしてなされます。キリストの体である教会は各器官によって構成されていますが、各器官がその目的を果たしていくためには、体につながっていることが最低の条件です。私たちが教会にしっかりとつながっているなら、各々に与えられている賜物(能力)は豊かな実を結びます。

 

愛を学ぶために

「兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって、互いに人を自分よりもまさっていると思いなさい。」(ローマ12:10)
私たちが単に理屈の上だけでなく、実際に信仰の兄弟姉妹たちに深く関わっていくためにも地域教会に属することが大切です。神は私たちに理想の人たちではなく、現実の人たちを愛して欲しいと願っておられます。

 

キリストの命令として
イエス様は「わたしは・・・わたしの教会を建てる」(マタイ16:18)と言われました。間違った個人主義的風潮の中、教会において責任を負うことも、関係を深めることも、指導者に従順であることも嫌い、自分の都合で教会を次々と変えていくクリスチャンがいます。教会に加わらなくても(集会に参加しなくても)良い信者になれると思っているようですが、神はそのような考え方を支持されません。
                                            (高森恒喜伝道師)

世界共通語

聖書の言葉
~ハレルヤ~
神を賛美します、仰ぎますと言う意味があります。このハレルヤは、万国共通の聖書の言葉です。現在数百に聖書は翻訳されていますが、このハレルヤだけは、翻訳なしの言葉なのです。もちろん国により、発音の仕方が若干異なるのは当然ですが、しかし、殆どの国で分かるようになっているという、いわば不思議な言葉=語彙になっているのです。
~アーメン~
このア-メンも先程のハレルヤとならんで、世界共通語です。ア-メンはもともと、ヘブル語(ユダヤの言葉)で「まことに」とか「たし
かに」などの意味があります。また、神への感動の言葉であると同時に「そうなりますように」との願いが込められた内容にもなっています。ですから、祈りの最後は、「イエス様のお名前で祈ります」「ア-メン」と結ぶます。

永遠のいのちのことば

すなわち、いのちのことばについて・・・すなわち、御父とともにあって、私たちに現わされた永遠のいのちです。Ⅰヨハネ1:1ー2

私たちはイエス様を救い主として受け入れ「永遠のいのち」を得ました。「永遠のいのち」は単なる「天国で永遠に生きることができる保証」ではありません。「永遠のいのちを得る」とは「いのちのことばに結びつけられること」なのです。

イエス様は「わたしが来たのは羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」(ヨハネ10:10)と言われました。「永遠のいのちを持つ」だけでは十分ではありません。私たちはそのいのちを「豊かに持つ」ために召されているのです。

信仰生活に、喜びがない、力がない、安らぎがない、とするなら、それは豊かないのちを得ている状態ではありません。イエス様もそのことを悲しまれるでしょう。イエス様は私たちに豊かないのちを与えるために来てくださったことを今一度思い起こしましょう。

豊かないのちを得るためには、いのちのことばにしっかりとつながることが大切です。まず第一に、神様のことばに聞く必要があります。「信仰は聞くことにはじまる」とあるとおりです。イエス様は聞き方に注意しなさいと言われましたが、神様の前にへりくだりの心を持って聞くことが大切です。第二に聞いたことばを告白することです。信仰と告白は切り離すことができません。それに忠実であれば、第三の「みことばの実践」に自ずとつながっていきます。

「行いのない信仰は死んだものです」とあるように「豊かないのち」の溢れる信仰生活は「みことばの実践」の中で体験できるものです。みことばを単純に実践すれば実践するほど、あなたの中に神様のいのちが生き生きとしてくるのです。いのちの泉からこんこんと聖霊の生ける水がわき出てくるのです。それはあなたの心を潤し、流れ出て、人々を生かす力となります。幼子のような素直な心でみことばを受け入れましょう。そして、みことばを行いましょう。それがあなたの信仰生活を実り豊かなものとし、あなたの霊を躍動させるのです。
                                            (高森恒喜伝道師)

苦しみの中で

神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。(Ⅱコリント1:47)

イエス様を救い主として心に受け入れるならば、真の幸せを手にすることができる。これがクリスチャンの確信です。しかし、これはイエス様を信じれば苦しみを味わうことがなくなるということではありません。クリスチャンであっても様々な苦しみを体験します。

では、神はなぜ私たちが苦しみを体験するのを許されるのでしょう。苦しむことに何か特別な意味があるというのでしょうか?

第一に「苦しみ」は私たちが聖書の教えを深く学ぶ機会となることを心に留めましょう。「苦しみに会ったことは、私にとって幸せでした。私はそれであなたのおきてを学びました」(詩篇119:71)と記されているように、私たちが苦しみの中で聖書の教えに心を向けていくときに、それは生きて働かれる神のメッセージを受け取る素晴らしい機会となるのです。そして、その生けるみことばがあなたの魂と霊に活力を与え、困難を乗り越えるさせることを経験的に知ることができるのです。

第二に「苦しみ」は私たちを真の祈りへと導くことを覚えましょう。物事が順調に行っている時、私たちの祈りには真剣さが欠けてしまうものです。しかし、苦しみの中から神に助けを叫び求める時の祈りは心からあふれ出る真の祈りとなるのです。そして、そのような本物の祈りの中でこそ私たちは真の神と出会うことができるのです。私たちの信じる神は「わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答える」(エレミヤ33:3)と仰せられる神なのです。

第三に「苦しみ」には必ず解決の道があることを知りましょう。「神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えて」(Ⅰコリント10:13)おられるのです。神様は地上での「苦しみ」をとおして私たちを訓練し、新しい永遠の世界に入るにふさわしい者として整えておられるのです。
                                          (高森真理子伝道師)

イエスが与える平安

わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。(ヨハネ 14:27)

「一寸先は闇」と言いますが、確かに人生にはどんなことが起こるか分かりません。病気や事故、そして思わぬ災害、そして今では不景気でいつ会社が倒産するか、また失業してしまうか、心配が尽きません。今の世の中、不安が一杯です。人は不安になると心が騒ぎます。そして恐れが心を支配します。

ある時、同じように不安を覚え、恐れを抱いていた弟子たちにイエス様は、「あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ 14章27節)と言われました。

なぜ弟子たちは恐れていたのか。その頃、ユダヤ人の指導者たちがいよいよイエス様を捕らえ、殺そうとしていたからです。弟子たちはイエス様がどうなってしまうのか、そして自分たちもどうなるか分からない不安に襲われ、恐れていました。

そんな弟子たちにイエス様は、「心を騒がすな、恐れるな」と言われたのです。イエス様は何の根拠もなく「心を騒がすな、恐れるな」と言われたのではありません。 それにはちゃんと理由がありました。 イエス様はその時、「わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。」(ヨハネ 14章27節)と言われました。

イエス様が与える平安は、この世の与える平安とは違います。ピリピ人への手紙4章7節には「人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」とあります。これがイエス様の与える平安です。人の考えに優る神の平安を与えられたならば、たとえ不安に襲われ、心が騒ぎ、恐れが生じても、しばらくすれば心は穏やかになり、絶望と思える状況でも神に希望を持つことができるようになるのです。

人は人生において不安や恐れを避けることはできません。しかし、心に神の平安が与えられるとき、不安や恐れによって心が押し潰されてしまうことはありません。神様の救いを待ち望むことができるのです。神の平安によって私たちの心は守られ、支えられるのです。あなたもイエス様からこの神の平安を受け取ってください。
                                   (高森恒喜伝道師)

愛における成長

兄弟たち。あなたがたのことについて、私たちはいつも神に感謝しなければなりません。そうするのが当然なのです。なぜならあなたがたの信仰が目に見えて成長し、あなたがたすべての間で、ひとりひとりに相互の愛が増し加わっているからです(Ⅱテサロニケ1:3)

地上での人生は霊的成長の場として人間に与えられているものであると聖書は教えます。私たちの日々の生活の中での優先事項は霊的成長を追求することでなければなりません。

霊的成長とは何でしょう?それを一般的な表現に言い換えるなら人格的成長という言葉が一番近いかもしれません。そこに信仰の成長という側面が深く関わるのが、霊的成長です。

では霊的成長はどのようにして計ることができるのでしょう?成長期の子供がみるみる背が高くなる様子は誰が見ても明らかですが、同じようにキリスト者の霊的成長も目に見えるかたちであらわれるものです。それは「愛」において明らかになるのです。

ですから、聖書についての知識が豊富になったとしても、いくら素晴らしい奉仕者になったとしても「愛」において成長がなかったならば、それはキリスト者として成長したとは言えません。

霊的成長とは愛における成長です。地上が霊的成長の場として与えられているとは、人々を愛することを学ぶ場として日々の生活が、様々な人間関係が与えられているということです。私たちは親子の関係をとおし、夫婦の関係をとおし、その他様々な関係をとおして愛することを学んでいくのです。

では、聖書の教える「愛する」とは一体どのようなものでしょう。それはイエス様の言われた「何事でも自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい」(マタイ7:12)という教えに集約されます。それは相手の本当の必要を満たしてあげることです。イエス様は私たちの魂の救いという真の必要を満たすために、その命をささげてくださいました。同じように、私たちもまわりの人々の真の必要を見分け、そのために持てるものをすべて捧げることのできるものとして日々成長していくことを求めていきたいのです。
                                            (高森恒喜伝道師)

いつも主のわざに励みなさい

堅く立って動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあって無駄でないことを知っているのですから(Ⅰコリント15:58)

私たちクリスチャンはいつも「主のわざ」に励むものでありたいと願いますが、一体全体「主のわざ」とは何でしょう?

福音宣教に決まっているじゃないですか、と思われる方もおられるでしょう。しかし、本当にそれだけでしょうか?

私たちは分かっているようで分かっていないことがたくさんあります。これはこうに決まっている!!と思っていることでも、たまには疑ってみることも大切です。
実は「主のわざ」とは何か?と言う問いについては、イエス様ご自身がはっきりと答えられています。それは「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざ(主のわざ)です。」(ヨハネ6:29)というものです。イエス様を救い主として信じ受け入れることこそが、「主のわざ」であるというのです。

イエス様を救い主として信じ告白するのは一回限りのことかもしれません。しかし、大事なのはイエス様を信じ続けることです。それこそが神のわざを行うことであるというのです。

イエス様を信じるとはただ知識としてイエス様を救い主として知っているということではありません。イエス様に従いつづけることによって、イエス様を救い主として体験し続けることです。神のことばを実践する中で、神の生きておられることを知り続けることなのです。

ですから、「主のわざ」=(イコール)「福音宣教」と考えるのは短絡的と言えます。宣教活動さえ行っていれば、それが主のわざに励むことだと思っていると思わぬ落とし穴に陥ります。「福音宣教」も神のわざの一部ですが、あくまでも、神のことばに従う中での一部です。 同じように、仕事に励むこと、妻を愛すること、夫を赦す事、子どもを主にあって教育することも主に従うことも、主のわざを行うことなのです。そのことを覚え、主のわざに溢れるものとなりましょう。(高森恒喜伝道師)

クリスマス礼拝&祝会2

19日に行われたクリスマス礼拝・祝会に20名以上の方々が出席されました。

特に小中学生の子供たちが沢山出席してくれて嬉しかったです。

前日・当日は軽食の準備で忙しくしていたのですが、みんな「美味しい!!」と食べてくれてほっとしました。

一人で作ることにも限界があるので毎年軽食メニューは悩むのですが、昼食はオードブル3台~4台(大人向け)、夕食はピザ・唐揚げ・チキンナゲット・ハヤシライスやゼリーなど。

 

小さな冷蔵庫に材料を全部入れて、食事の準備。

主人はみことば(いのちの食物)の準備。

どちらも大切な奉仕だと思っています。

クリスマス礼拝&祝会

19日(日)午前10時~クリスマス礼拝

午後15時~クリスマス祝会(子供向け)

入場は無料です。

どなたでもお気軽にご出席ください。.

人間を造った神、人間が作った神

私たちは、世の偶像の神は実際にはないものであること、また、唯一の神以外には神は存在しないことを知っています。(Ⅰコリント8:4)

日本人の宗教観をよく表す「鰯の頭も信心から」ということわざがあります。そこには「信仰」が大事なのであり、信仰の「対象」は何でもいい、という日本人的感覚が見え隠れするような気がします。しかし、本当にそうでしょうか?

聖書では神と人間の関係が結婚の関係に譬えられます。そのような感覚で「信仰」を捉えているクリスチャンには「信仰」が大事であって、その「対象」はなんでもいい、という考えは違和感を覚えます。それは「結婚」が大事なのであって、その相手は誰でもいい、と言っているのと同じように聞こえるからです。

たしかに「結婚」という制度は大切です。しかし、それ以上に大切なのは結婚する相手です。同じように「信仰」する心も大事ですが、もっと大事なのはその信仰の対象です。

聖書はこの世界には二種類の「神」しか存在しないと教えています。それは「人間を造った神」か「人間が作った神」です。日本の八百万の神々、ギリシャ神話の登場する神々などなど「人間が作った」神々は星の数ほど存在しますが、それらはあくまでも人間の創造の産物であり、実在するわけではありません。実在の神は人間を含めた天地万物の創造された方であり、唯一無二の存在なのです。

この世界を純粋な心の目で見るとき、私たちはこの世界をデザインされた人間の知性と能力をはるかに越えた存在を感じることができます。この世界は進化論が主張するように偶然に存在したと考えるにはあまりにも緻密にできています。

人間も神のご計画によって創造されたのです。現在、人間とまことの神との関係は壊れた状態にあります。しかし、この関係を修復し、私たちを本来の在り方に戻してくれる唯一の道があると聖書は教えるのです。それがイエス・キリストです。是非、あなたもこのイエスによってあなたを愛しておられる神との関係を回復してください。
                                    (説教者:高森恒喜伝道師)

フォロー

Get every new post delivered to your Inbox.

現在306人フォロワーがいます。